第3夜
目に見えないもの
「おまえ、虚無を見たことがあるかい、ぼうず?」
ミヒャエル・エンデが、『はてしない物語』の中でファンタジー〈物語〉と「虚無」の戦いを描いたのは、目に見えないものへの畏敬の念を取り戻すためだったと思う。それはつまり、目に見えるものだけを信用し、目に見えるものだけに囲まれて生きていると思っているわたしたちが、しだいに目に見えないものを恐れるようになり、その恐れはいつしかありもしない敵を生み出し、やがて世界は虚偽であふれてゆく。それを止めることができるのは、ファンタジーであり、目に見えないものへの畏敬の念だ、と。
たとえば、鬼とか、お化けとか、妖怪とか。ほんの少し前までは、その姿を見たことはないけれど、たしかに存在を感じることのできるものがたくさんいた。そのせいかどうか、小学生のころ田舎の家に泊まると、よくおねしょをした。なんのことはない、ひとりで夜中に廊下をわたって離れの厠(トイレ)までいくのが不気味で怖いから、それなら布団で用を足したほうがマシという、本人にとってはいたって合理的な解決方法だった。
もちろん、目に見えないものは、いまでもいる。いるのだけれど、大人になるにつれて、そういうものへの畏敬の念は薄れていった。というよりも、そういうものは「いない」と思い込んで強がっているだけ、かもしれない。
でも、どんなに強がってみせたところで、亡くなったひとを感じることはできるし、会えないひとを想うこともできる。来し方を先祖とともに顧みることもできれば、行く末を子孫とともに描くこともできる。どんなに強がってみても、わたしたちは、たくさんの目に見えないものに囲まれて、いまを生きている。
畏敬の念は目に見えないものの存在を感じとることから生まれる。目には見えなくても、いつもそこに。そう、いまこの瞬間にも気配を感じたら――。
🖊 平野有希