第2夜
同じ空の下
不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心
――石川啄木
啄木が見上げた空と、いまわたしが見上げている空は同じ空だろうか。それともちがう空だろうか。
はじめてこの歌と出会ったのは中学2年生の国語の教科書だったとおもう。ああ、世の中には自分と同じことをしている人がいるものだと、この歌が映し出す大きな空の景色に、妙に納得したことをおぼえている。
それからは、なにか嫌なことがあったり、ひとりで考えごとをしたくなったりしたときには、意識して空を見上げるようにした。わたしとあなた、あなたとわたし。同じか、ちがうか。生まれも育ちも、顔もかたちも、好き嫌いも、いろんなことがちがう。どんなに気が合うふたりでも、やっぱりちがう。けれど、気がつけば、ことばだって、顔つきだって、ひょっとしたら経験したことや抱えている悩みだって、よく似ている。ちがう、と、同じ、が同時に存在しているという、不思議なバランス感覚。その感覚をたしかにつかみ取りたくて、空に向かって手を伸ばす。その手の先を白い雲が風にのって流れてゆく――。
生きていることと亡くなっていることは、そんなに大きくちがうのだろうか。たとえば、遠く離れて会えない人と、いつもつながっているような感覚。たとえば、ずっと前に亡くなったおばあちゃんの声が、いまも思い出されるような感覚。きっと、それはいま目の前にはいないけれど、心の中で生きているということではないか。大切な人から空間も時間も遠く離れてしまったとしても、つまりは、大切な人は「ちがう」ところへいってしまったけれど、でもやっぱり、わたしと「同じ」ところにいるのではないか。そんなふうにこころの中を整理することができたら、いまこの胸を締めつけている大切な人と別れた悲しみも、ひとりぼっちの心細さも、少しは和らいでくれるだろうか。
啄木が見上げた空は、時代も場所も、いまわたしが見上げている空とはちがう。けれど、それでもやはり。わたしたちはみな、同じ空の下を生きている。
🖊 平野有希