第1夜
忘れられてのち、生きている。
「人は二度死ぬ」、と永六輔が言ったのは、永さんがお寺の子だったからということもあるだろうけれど、やはり一抹のさみしさからのことだったろう。一度目は肉体的な死、二度目は人々の記憶から消えたとき。たしかにそうだなと思う反面、そっと人知れず、忘れられたいときもあるだろうなとも思う。
おじいま――。小学生のころ、毎年のように参加した夏のキャンプで出会ったおじいさんを、子どもたちはみなそう呼んでいた。おじいまは火起こしの名人だった。独特な薪の組み方であっという間に立派な火を起こす。その姿がかっこよくて、おじいまが火を起こすときはいつもとなりでじっとそのやり方を見ていた。
それはそれだけのことで、おじいまとのあいだにそれ以上のなにかがあったわけでもなく、夏の思い出のなかにしまわれていたのだけれど、つい先日、久しぶりに薪で火を起こす機会があった。こうして、こうして、こうして。40年近くも前の動きを自然と思い出し、きれいに薪を組んで、火を起こす。胸の奥がじっと熱くなった。ああ、生きている。遠い記憶のかなたに過ぎ去った日々とそこで出会ったひとりの人が、わたしの行動の一部としていま目の前に現れて、つまりは、わたしの知らないうちに、わたしの一部になっていた。
おじいまのことは、自分の胸のなかだけのことで、おじいまを知らない人には直接的に伝わることではない。しかし、わたし自身が死んだあとで、わたしがだれかの行動の一部として現れ、だれかの一部になることができたら、わたしも、そのわたしを介して、おじいまもまた生きていることになる。そういうふうにして人はつながっている。
「人は忘れられてのち、生きている」
忘れるというのは、消えてなくなることではなく、むしろ、からだに染み込んでいくように、だれかのこころのずっと奥のほうで生きることなのだ。そうか、そうか。焚き火の煙が空に消えていく先を見上げて、ほっとひとつ息を吐く。
🖊 平野有希